<コラム48> 2024.05

「対話」について

下田節夫

 最近、「対話」について考えることがよくある。

 

私は仕事としてカウンセリングをしているが、そこでクライアントの方(たち)とできるとよいと思っているのが「対話」である。相手の方に、「私はそう思っている」と伝えることもある。

 

また最近関心を持っているのが、「オープンダイアローグ」(OD)である。これは、文字通り「対話」である。ODについては、私は話に聞いただけで実際の体験はなく、どれだけ理解できているかについては隋分怪しいと言わざるを得ない。だが、直観的にではあるが、ODで大切にされていることについて私は、長年続けてきた「ベイシック・エンカウンターグループ」(BEG)と深く相通じるものがあるような気がしてならない。

 

BEGで何が大切にされるかについて、言葉で説明するのはなかなか難しい気がするが、少し試みてみたい。BEGでは、そのときそこに集まった構成員(メンバーとスタッフを含めた)全員が、主に言葉による発言を通して心の交流をしてゆくのだが、そこに産まれてくるのは、それまでどこにもなかった世界である。一期一会。そこで体験されるのは、全くそのグループでだけの、新しいものである。それは、集まる人が一人でも違っていれば、全く異なるものになる。人が違わなくても、仮に同じ人たちが集まったとしても、行われる時期が異なれば、恐らくそこで起きることは、殆ど全く違ったものになるだろう。グループ場面での一瞬一瞬に、それまでどこにもなかった新しいものが産まれる。

 

(今書いているようなことは、実は何もBEGでだけ起きることではなく、日常のどこでもいつも起きていることなのだとは思うが、日常ではどうしてもそれが薄められた感じになりがちなので、ここではやはりBEGに特化したものとして書こうと思う。)

 

BEGについて、もう一点述べてみたい。BEGについて私は、「そこでは参加者一人ひとりの世界が大切にされ、それぞれが心を開いてやりとりできるとよい」と思っている。ある場面で、それまでのグループの流れを受けながら、誰かの発言を聞いて(あるいは沈黙の中で)、私の心の何がしか深いところで動く・感じるものがある。それを表明したい思いになったときに、その感じをできるだけ感じたとおりに言葉にして相手に(グループに)伝える。そのとき、できることなら相手の思いを精一杯大切に受け止めた上での発言であるとよいと思う。言葉を発した後何が起きるかは、私には何とも言えない。後はグループに委ねるのみである。

 

それが誰にも受け止めてもらえずに終わってしまうこともある。誰かに反応してもらえたときは、何ともありがたい気になる。発言(反応)してくれた参加者の中ではきっと何かが起きたのだろうから、今度はその参加者からみたプロセスについての話になってゆく。それについて、また私が反応することもあるし、別の参加者が反応することもある。こうして、プロセスが続いてゆく。

 

そうしたプロセスの中で、何かが伝わったとか共有されたとか、手応えのようなものがあったように感じられるとき、私は、またきっと他の参加者も、「そのグループを生きている」ということになるように思う

BEGに参加するとき、私には、そして多分どの参加者にも、グループで多少とも意味のある体験ができるとよい、という期待があるだろう。その多くが満たされるとよいと思う。あるいは、満たされるというよりは、思ってもいなかった体験をすることもあるだろう。総じてなるべく多くの参加者が意味ある体験をできるとよいと思うが、幸いBEGでは、それがある程度成し遂げられることが多い。それは何か漫然と行われる結果としてではなく、プロセスの中でスタッフを含めて構成員が心を込めて発言してゆく中で産まれてくるものである。また、スタッフには、それが産まれやすいようにグループをしつらえる責任もある。そうした参加者個々人の努力なしには考えられないことだが、でもそれを総じて言おうとすると、私はどうしても、「グループに備わっている力が発揮された結果なのではないか」と言いたい思いを抑えられない。「多くの参加者の思いがかなりのところ実現するという力がグループには備わっている」という信頼のようなものに支えられて、BEGは成立するのだと思えてならない。

 

だいぶ長くなってしまったが、後少しで終わろうと思う。

 

BEGのメンバー構成は、そのグループでは初めから終わりまで替わらない。その人たちの間で、一期一会が実現する。「それを支えるのが、グループの潜在力への信頼であろう」と書いた。

 

では、ODではどうなのだろう?一つ全く違うのが、構成員である。ODでは、問題の解決を求めるクライアント(たちのチーム)と、それを援助しようとするスタッフ(たちのチーム)が一堂に会して話を交わすのだが、その構成は厳密に固定されているのでなく、メインの人たちは替わらないが、全体としては状況に応じて流動的なようである。では、BEGでのグループの潜在力への信頼に相当するのは何なのだろう?全く不十分な理解しかないので心許ないが、私はそれは「対話」への信頼なのではないかと思う。その都度一部の人が入れ替わることがあるとしても、そこでの構成員は誰もが、持ち込まれた問題が解決あるいは展開することを望んでいるだろうし、殊にスタッフにはそれが顕著であろう。そういう参加者たちが、やはりそれぞれの心に浮かんできたものをなるべく率直に表現する。それに触発されて、次の人がまた率直な発言をする。そうした連鎖が続いてゆくということなのだろうと思う。

 

その中で、発言一つひとつがつながってゆく度に、先に述べた新しいもの」が産まれるのだと思う。あるODの総体は、その集積なのであろう。そこで産まれる状況は、当初の問題が発生したときとは、恐らく深い所で大きく異なるものになっているのであろう。恐らくその結果として、当初の問題の問題性とでもいうべきものは、深く変質しているのであろう。それは問題の「解決」になっているかもしれないし、問題が「解消」しているかもしれないし、もっと前向きな問題性が生じているかもしれない。

 

ある人が、その心の奥に生じてきたものを表明し、それに心を触発された人がまた心の深くからのものを表明する。その両者ともが、それぞれの立場・やり方で問題に誠実に取り組んでいるとき、そこに産まれる「新しいもの」こそが、問題の解決や展開、発展につながるのではないか、と想像される。

 

話を元に戻すと、できれば私が仕事でしたいと思っているのは、そのような「新しい事態」を招来することなのではないかと思う。そういう事態はまた、仕事でだけでなく、日常場面でも起きうることと思いたい。

 

以上、最近「対話」について考えていることを述べた。それが、もしこれを読んでくださった方との「対話」に繋がっていくようなことになったら、嬉しい限りである。